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映画批評、映画評論
「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」 映画の筋金(すじがね)について 2008.6.21
監督若松孝二
「実話」を基にした映画の場合、特にそれが、知識人諸氏を喜ばすであろうところの、社会的大事件であればなおさら、いかにして画面を「である」という状態から「する」という運動そのものへと流してゆくのか。、最後まで「である」の映画はひたすら知性におもねり、「する」へと流れた映画はそれだけで「持続」という厚みを獲得してゆく。「である」の知性は歴史を叱り付ける。高みに立って、知識という「量」でもって過去を知識と整合させながら固定させてゆく。だが「する」の映画は新たに生成を続けることで「現在」を獲得できる。この映画が仮に「今」という時間を獲得し「今、見るに値するもの」であるとするならば、それは過去の量的再現によってではなく、過去という現在を新たに生成し続けているからに他ならない。
序盤、映画は実写や原田芳雄のナレーションを交えながら、徹底して線的な時間としての「筋道」や「行動」を我々に指し示しつつ、まるでこの映画が、過去の連合赤軍の行動の「再現」フィルムであるかの如き様相を呈して「知識人」たちを喜ばせながら、しかし次第に若松孝二は、「過去の連合赤軍」たちを、「いま、ここに」へと解放してゆく。仮に「いま、ここにいる」俳優たちが、過去の「である」ならば、どうしてああまでカメラは「顔」に近づき、まるで彼らを「観察している」かのような画面を執拗に露呈させる必要があるだろうか。「いま、ここにいる」のがただの俳優であるならば、ひたすらカッティングと台詞とでもって「物語」を紡いでゆけばよろしいのである。だが若松孝二は、そのような「物語」にはまったく興味を示していない。何故ならば、そのような「物語」は、「過去の連合赤軍」をひたすら連合赤軍「である」という「量的な状態」として「再現」することしかできず、何ら現在の我々が「見る」という行為によって立ち会うべき新たなる生成を何一つ露呈させはしないからである。若松孝二が執拗までに彼らの「顔」に接近するのは、彼らの「である」を削ぎ落とし、裸にされた「いま、ここにいる人間」の生成そのものを抉り出そうとしているからに他ならない。
連合赤軍という「である者たち」から、濾過したように「人間」だけが露呈し始め、運動そのものとして充実してゆくと、さらにそこから「若さ」が、そして遂に「青春」としての運動が、愚かさゆえの比類なき優美として何らの特権なしに画面を覆い始めた時、「青春」は筋金入りの作家の手によって骨を拾われ、厚みの在る持続としての「現在の青春」をひたすらフィルムの上に露呈しては消えて行く。
だがこの映画のクローズアップにはそれだけではなく、「近づかずにはいられない」という若松孝二のセンチメンタルが露呈している。
映画の持続を破戒しかねない大きなクローズアップをここまで入れ続ける若松孝二はもちろん「バカ」であり、だがそもそもが連合赤軍という「バカ」を見つめるための距離感として、若松孝二は「近づく」ということでしかみずからの倫理を達成できず、だからこそこの距離感というものが、映画を、そして持続を破戒しかねない「距離感」というものが、「間違ってもこいつらの顔をロングショットで撮れるものか」という触覚的な手触りこそが、反映画であることでしか映画を映画にさせることの出来ない倫理としての、みずからが破滅することでしか決して他人様の破滅に立ち会うことのできない古い男の、「映画の筋金」の物語として、映画に命を吹き込むのだ。
それはポルノ映画を撮り続けてきた若松孝二の「テレ症」であり、そもそもが「テレ症」でなければポルノ映画だの連合赤軍映画だのを撮れる訳がないのであるが、こうして「完成」ではなく「破壊」へと向けられた倫理的方向性が、映画に厚味を付与し、回りまわって、理屈としての量的な「である」から、エモーションとしての「運動」そのものへと発展させるのだ。
この映画はいつBGMとして鶴田浩二の「人生劇場」が流れてきてもおかしくない。
序盤、レバノンへ旅立つ重信房子(伴杏里)が、遠山美枝子(坂井真紀)と別れ際の夜道のシーンで、重信房子へと切返され、クローズアップで撮られた伴杏里の背景の「ボヤけた部分」には、夜の街灯たちが、まるで紗をかけられたウィリアム・H・ダニエルズのガルボのようにして、水玉のような光線をキラキラと投げかけているそのとき、重信房子は重信房子「である」ことを止め、ただひたすら一人の「マドンナ」として、青春の真っ只中へと解き放たれるのだ。ありとあらゆる瞬間が、顔が、光が、「である」ことをやめた時、辺りは暗闇が支配し始め、「映画」という名の「現在」が露呈し始める。「さぁ、映画が始まるぞ!」というこの瞬間こそ、「知識」という物質的保証から解き放たれた、現在の若者たちと、現在の彼等との、語らいの始まりなのだ。それを可能にしているものこそ、若松孝二の発散させる映画の「筋金」なのである。
映画というメディアが、「歴史」というものを語らしめる時、まさに映画というメディアの特権としての「現在」を露呈させることで、歴史そのものを、いま、ここに「進行」「生成」させることができる。この映画は、「である」という過去形の弛緩した不動体を、「する」という凝縮した持続へと解き放ち、「歴史」というものが常に「いま」であることを美しく露呈させている。
■お金がありません
それにしてもこの「お金がありません」という画面の醸し出す反動的充実感はまさに若松孝二の「意気地」以外の何ものでもない。あさま山荘のシーンでは、私は絶対に「鉄球」は金がかかるから出て来ないと読んでいたし、それどころか窓の外はすべて露出オーバーで真っ白に飛ばしていて(お金がないから家の外にセットを作れず、窓の外の風景を隠しているのだと推測する)、もう涙ぐましいほど「お金がない」と怒っているのが見事に伝わって来るのだが、何とあの壊された山荘が若松孝二の「自宅」であるという信じられない事実を小耳に入れた時、ある種の「神々しさ」というものが若松孝二の周囲を覆い始めるのだ。
■ベストテンへ
映画研究塾お気に入りの批評家諸氏が、文句なしにこの作品を来年度~旬報ベストテンの「てっぺん」に乗っけるであろうことを、ここにいつもの遊戯として予言したい。多分この上を行く作品は、今年は出ない。無理だろう。
それにしても、役者にああいう「顔」をさせられる作家が今世界に何人いるか。
まったくもって「筋金入り」の映画であって、間違っても「ガキ」にコレは撮れない、ほんとうにカッコイイ映画である。